夏の暑さも落ち着き、教室に響くエアコンの音も消えた。
　授業中に響くのはカツカツと黒板をうつチョークの音と、教科書を読み上げる教師の声。
　合間合間に、ノートに書き連ねる漣のようなペンの音が交じり合う。
　彼女達が席を並べる清宮女子学園は校名通りの清廉な女子を教育し、卒業するまでの３年間で勉学のみならず、行儀作法も収めた淑女を輩出する――というのは昔の話。
　現代文化に染まった年頃の女子の教育は、全国の教師に漏れずここでも悩みの種である。
　それでも近隣から学園生は素行が良いと評判なのは昔とった杵柄だろう。
　あくまでそれだけの話なのだが、今の彼女達はわき目も振らず一心に授業に取り組んでいた。
　常日頃、授業中にもメモを回し小さくおしゃべりをするのはあたり前の生徒ですら、他に倣い一心に黒板をおっている。
　その最中、彼女達の目が時おり壁に掛けられた時計を、それこそ黒板よりも熱心に見ていたのは仕方がないだろう。
　静かな教室に、カチコチと時計の音が混じる。
　一秒ごとに時を刻み、六十を数えて長い針がカチリと一つ隣にずれる。
　……５。
　それを見て、皆神さくやは頭の中で数字を数えた。
　後五分。
　それで区切りになる。
　彼女は他の生徒よりも真面目な生徒として扱われ、それは大体において事実であったが、それでもカウントを取る事はやめられなかった。
　……４、３，２……。
「それではこの問題を……」
　……１……！
「皆神さくやさん」
「……！！」
　後一つという時に名前を呼ばれた。
　カウントを取るのに注視していたため、とっさに起立もできず返事をすることも出来ず、ガタガタと椅子を引く音が教室に響く。
「あ、申し訳ありません、ええと……」
　慌てて答えようとした所をやんわりと押し留められる。
「あなた達、目が時計に釘付けですよ」
　初老の教師がクスクスと笑う。
「さくやさんまでこうなのだから、無理もないことかしら」
「申し訳ありません……」
　小さくなって俯くさくやにあわせてチャイムが鳴る。
　待ち望んでいたカウントの終わりに視線を集めていたのは、時計ではなく赤く縮こまるさくやだった。
「それでは今日はここまで。皆さん、学園祭頑張ってくださいね」
　穏やかな口調で終了を告げるが、その口元に浮かれた生徒にしてやったと言わんばかりの、年齢不相応の悪戯心が浮かんだ笑みを、さくやは見逃さなかった。
　１０月の第二週の金曜日。
　教室に張られたカレンダーの日曜日に赤いマークがついている。
　清宮女子学園で開催される秋の学園祭。
　３年生として受験を迎えるさくや達にとって、学園で行う最後の行事だった。
「さくや大変だったね～」
　授業中と一変し、教室は途端に慌しさを増す。
　３年の秋になり部活動も引退した生徒が直面するのは来年春の受験だ。
　残り数ヶ月という期間は時間を持て余す者も多く、勉学に励む者、部活動で控えていた遊びに使う者、それから日々を怠惰に過ごす者で分かれていた。
　さくやに声を掛けたクラスメートは後者に属しており、特に急ぐ調子もなく気安く声を掛けた。
「……いえ……」
　完全によそ見をしていたと、さくやは内心後悔する。
　本日の授業はこれで終わりだ。翌日から文化祭の準備期間を挟んで、週末にはお祭りが行われる。
　自分では普通に過ごしていたつもりが予想以上に入れ込んでいたのだと思い知らされて、さくや本人が驚いていた。
　最上級生だからと言って、年頃の少女全員が祭りの前に真面目に授業を受けるなどという殊勝な態度を徹底する訳がない。
　授業態度の悪い者は祭りに不参加で補習というペナルティがあり、その重圧から解放された事も今の浮ついた空気に拍車を掛けていた。
「それで学園祭なんだけど、さくやの家の人って今年は来るの？」
「はい。今年は家族と友人……が来ると思います。昨年は……ちょっと……」
「ふーん、そっかぁ」
「薬師さんは、確か昨年はお姉さんが来られてましたよね」
　さくやの言葉に薬師清香は考え込む。
「そうだねー、今年もおねえちゃんは今年も来ると思う」
「そうですか」
　それぞれの家庭には、それぞれの事情があるものだとさくやは一人頷く。
　目の前のクラスメート――薬師清香は入学して最初に出来た友人だった。
　出席簿順に座る教室で二人の席は近い。
　無口なさくやに臆面無く話しかけ、それから３年近くすぎても変わらず接してくれている。
　宿題を忘れるたびに、皆神大明神などといわれて手を合わせられるのだけは受け入れられないが……。
「じゃあ、今年は例のお兄さんも来るんだ」
「……え」
　その一言に我にかえる。
　さくやの兄――皆神孝介もやってくる。
　それは至極当然の事であり、さくや自身もそのつもりでいた。
「え、ええ……まあ。特に用事が無ければ来るのではないでしょうか……」
「そうかそうか～。昨年来なかったから今回は楽しみだなー」
「……う」
「やっぱり似てる？　兄妹ってどれだけ似るんだろ？」
　さくやに顔を近づける清香は、好奇心に目を輝かせている。さくやは圧力に押されるように椅子に斜めに沈み込んだ。
「に、似てるかどうかは分かりませんが……似てないと言われた事はありません……」
「じゃあ似てるって事なんだ。さくや似の男の人だとかなりイケてるっぽよいよね」
　何気ない一言に、一瞬教室の雑音が止まった――気がした。
　そして、言った張本人は気付いた様子もなく続ける。
「あっ！　そうそうっ！　写真前にちらっと見せてもらったけど、確かにそんな雰囲気だったかな～。ねえねえ、また見せてよ」
「……い、嫌です」
「ええ～～。どうして～っ」
　悲鳴をあげるが、さくやには知ったことではない。
　それより、興味津々に聞き耳を立てるクラスメート達から面倒な事になる前に離れるのが急務だった。
「私、用事がありますので」
　鞄を手に小走りに教室を出る。
「あーっ、ちょっとぉっ」
　廊下に出たが、予想に反して清香は追いかけてこなかった。
　ただしかし、背後の教室から聞こえる雑談に不穏な気配が漂っている。
「ねえねえ、やっちゃん。皆神さんって、お兄さんがいるの？」
「え～？　私はカレシって聞いたけど」
「どんな人だったの？」
「見た事ある？　似てる？」
　……背後の教室から聞こえてきた音声は、勤めて聞き流すようにした。
　校舎を出たさくやは、昇降口にクラスメートの姿がない事を見て大きく息をついた。
「どうしてこう……」
　噂が好きなのだろうと、つくづく思う。
　いつもの癖で携帯を取り出す。
　慣れた手つきで兄に文面を打つ。
「………………」
　――クラスメートの女の子が兄さんに興味深々です。
　送信ボタンを押そうとした手を押し止め、クリアボタンを押して書き直した。
　――勘違いは一部解けましたが、まだ勘違いされています。
「意味不明……ですよね……」
　こんな物を送ってどうしようと言うんだろうか。
　オフのボタンをおして、メールを下書きのフォルダに入れた。
　文面は抹消していないが、どうせ後で書き直すのだからそれ自体はどうでもいい事だ。
　昔は人付き合いの薄いさくやが頻繁に携帯メールをやり取りする異性という事で、兄の孝介が恋人だと勘違いされていた。
　時間と共に飽きたのか、それとも兄というさくやの訴えが信用されたのか、最近はあまり言われなくなっている。
　……が、しかし、今ではそれは勘違いだと訂正しづらい状況になってしまっていた。
「……はぁ」
　再び小さくため息をついた。
　皆神さくやには慕っている異性がいる。
　相手もさくやの気持ちを受け入れ、二人は結ばれてお互いの気持ちも深く結びついている。
　舞い上がるでもなく、さくやはそう認識し受け入れてはいるものの余人に大っぴらに話せる物ではなく……それが今のため息に繋がっていた。
「どうしよう」
　友人に兄を紹介するのも構わない。
　恋人を紹介するのも、特に問題はない。
　だがしかし、その両者が同一だった時は、一体どのように言えばいいのだろう……？
　それが、好奇の視線に晒される事で浮かび上がった、さくやの悩みだった。
「週末、兄さんが来たら……」
　その時の事を想像し、かぶりをふった。
　調子のいい所がある兄は、余計な事を言わないだろうか。その疑問の答えは、さくや自身が一番よく分かっていた。
「……兄さんのことだから……はぁ……いっそのこと黙ってようかしら」
　寮の自室に向けて、とぼとぼと歩き出す。
　そんな事が出来たら苦労しないと、さくや本人が良くわかっていた。
　授業中も上の空になるほど、週末に兄と会うのを楽しみにしていたのだから。
　さくやがその気持ちを自覚したのがいつだったか、もう記憶も定かではなかった。
　ただ、物心ついた頃にはあたり前のように目の前の背中を追っていた。
　小さな視線の更に先にあるのは、さくやより少しだけ高い小さな背中。
　背後からは大好きな両親の声が聞こえてくる。
『さくやは本当に孝介の事が好きなのね』
　柔らかく暖かい声は母親のもの。
　高い位置にある顔は陽射しで影になって思い出せないが、今のさくやと同じ容姿をしている事は知識で知っていた。
　この想いは果たしてどこからきたのか。
　幼い頃は純粋な好意で良かった。
　家族と兄という一人の男性に垣根などなく、両者は同一で良かった。
　幼い頃に御奈神村で過ごした時も、母を亡くした時も、東京に引っ越した時も、常に家族が側にいてくれた。
　だからだろうか。
　いつの頃からか、さくやは一人に憧れるようになっていた。
　母を亡くし、壊れそうな自分を助けてくれた兄。
　最愛の人を亡くしたのに、子供たちに無償の愛を注いでくれた父。
　兄への思いを父に悟られたら悲しませると気に病み、大好きだからこそ兄から離れなくてはいけないと、遠く離れた全寮制の学園へ進学を希望した。
　それが今から３年前の事。
　そして現在――さくやを取り巻く状況は大きく変わっていた。
「おかえ、り～。速かっ、たね」
「……ただいま」
　少し時間を潰してから部屋に戻ると、出迎えたのは妙な抑揚のついた挨拶だった。
　ベッドの方からギシギシと音がする。
　それにあわせ、若い女子の吐息が混じる。
「さくっち、ん、今日は買い物、いかな、かったの？」
「…………ええ」
　さくやのそっけない返事も気にした様子もなく、ベッドの上でギシギシと音を立てる。
　入学してから寮の部屋を共にしたルームメイトも、さくやの態度にも解さず上下運動を続けていた。
「それでさくや――」
「……とりあえず、喋るか休むかどちらかにしてはいかがでしょう」
　ため息混じりにベッドのふちで踏み台昇降運動をするルームメイトに言った。
「いやー。体動かさないとすぐ肉ついちゃって」
　傍らにあったタオルを手に、洗面所に消える。
　その間にさくやは窓を開け運動の熱が篭る室内に風を入れていた。
「さくっちもやったら？　結構いいよ」
　戻ってきたルームメイトは言いながら自分の脇腹を叩いた。
「効果あるんですか？」
「手軽に出来るくせにけっこーいいよ。……なに、さくっちお肉気になるお年頃？」
「……南さんが言ったんじゃないですか」
「あはは、そうだった」
　さくやのルームメイト――仁科南はあっけらかんと笑った。
　夏の大会までバスケ部に所属しており、体を動かさないと落ち着かない体育会系の少女だが、小柄な体に黒いボブカットヘアは人形のようにも見える。
　女子にしては長身のさくやがインドアなのと反対に、外で体を動かすのを得意にしている。
　反対要素が多いからこそ、ルームメイトとして暮らせてきたのだろうと、さくやは思っていた。
「明日から学園祭準備だよね。さくっち何やるんだっけ？」
「うちは、また喫茶店です」
「あれ？　昨年もそうだっけ？　なんか研究発表みたいなのしてなかったっけ？」
「いえ一年の頃に……」
「ああ、そうだったそうだった。さくっち逃亡事件があったんだった」
「……逃げてませんから。皆さんの勘違いです」
　憮然とした声で告げる。
　さくやが一年の時、仁科南と同じクラスだった。
　そこで開かれたのは喫茶店。ただし、特殊な衣装に身を包んだものだ。
　最初は制服にエプロンという、ただの催しだったのだが、当時のクラスメートに衣装を扱っているお店の娘が居た事で、話が横道にそれてしまった。
「本当に、どうしてああなったのやら……」
　ため息と共にはきだす。
　きっかけはよく覚えていないが、確か流行の話だったように思う。
「いいんじゃないかなー。さくっちのメイド服似合ってたよ」
「……本当にどうしてああなったのやら」
　多分、数日前にやっていたらしい東京のメイド喫茶特集のテレビ番組が全ての原因だろう。
　さくやは御奈神村から引っ越した後、入学直前まで東京都に住んでいた。
　入学式が終わった後、見知らぬクラスメート達に対してそう自己紹介をしていた。
　東京の紹介番組と、東京からきたクラスメート。
　この二つを面白おかしくくっつけるのに、そう時間は掛からなかった。
「もう二度と着ません」
「まあまあ、写真ならここにあるし」
「ちょっと！」
　携帯を取ろうと手を伸ばす。後数センチという所で、手が空を切った。
　素早く身をかわされ、勢い余ったさくやは頭からベッドに倒れこんでいた。
「そのフットワークじゃ、わたしからカットは無理かな～」
「ひどいですよ」
　テレビでみたメイド喫茶の話になり、さくやが東京に居た頃に行った事があるのかと問われ――その時に、先の娘が言った一言が発端だった。
　――うち、その在庫あるよ？
「本当にまったく……」
　当時は兄――孝介を始め、父まで学園祭にやってきていた。
　二人を案内しようと思っていたのだが、メイド服を着る着ないの問答をしている間にさくやの調理当番になり、その後にメイド服のまま二人を探したのだが、トイレに行っていた兄とは擦れ違ってしまった。
　女子校のため、男性用トイレは職員用を流用する形になっており、タイミングの悪さを呪った。
　それと同時に恥ずかしい姿を見られなかった安堵と、一部囁かれていた『さくやの兄』に興味津々なクラスメートを押し留めているうちに、まともに話も出来ないまま、二人は帰ってしまった。
　本人達は華やかな女子校の学園祭を心の底から楽しんだようなのだが……さくやにとっては、あまり触れられたくない歴史の一つになっている。
「今年はもうあんな事はありません」
「そうなの？」
「ええ、よくよく考えれば、たかがフリルのついた衣装にすぎません。恥ずかしがる理由なんてないですから」
「……今、思いっきり写真消そうとしてきたよね」
「不意をつかれて慌てただけです。鋼の心で自制すれば、大した事じゃないと理解出来ます」
「……そこまで押しとどめないとダメなんだ」
「今年は着たい人のみという事になりましたから」
「そうなんだ。それは残念だなぁ」
「残念じゃありません！　……なんだか、兄さんと会話してるみたいです」
「へぇー」
「あ」
　しまった、と思った時には遅かった。
「さくっちって、お兄さんとどんな会話してるの？　いつものメールの人でしょ？　今年は来るの？」
「う――っ」
　思わず仰け反るさくやに、南は距離を詰めてくる。
　カットが出来なかったのと同様にマークを外すのも難しそうだった。
　結局、東京に居た頃の話をして、夕食前に何とか解放された。
　夕食が終わった後、さくやは寮の庭に出ていた。
　携帯電話を使うのに同居人に配慮したからだが、あまり聞かれたくない内容だったのもある。
　電話口の相手に今日の事を愚痴交じりに語る。
　さくやにとって気心の知れた相手だ。向こうもそれを気にした様子もなく、楽しげな返事がくる。
「楽しくないですよ。ほんと困ってしまうんです」
　電話口からは幼馴染の笑い声がした。
『こーすけに言ってやれば？　学園でモテモテですよって』
「嫌です。兄さん調子に乗ります。絶対です」
『そんなこと無いと思うけどなぁ。さくやちゃん一筋じゃないの？』
「………………そんなこと言われても、肯定も否定もできません」
『あはは、それはそうだ』
　春日いろはの快活な笑い声を聞いてがっくりと肩を落とす。
　御奈神村に居た頃のさくやと孝介の幼馴染で、春日神社の跡継ぎのいろはは、二人にとって一番の理解者になっている。
　それは年が近くお互いをよく知っているというだけではなく、さくやと孝介の関係を含めた上の話だ。
『でもふつーに、これがうちの兄さんです、くらいで押し通しちゃえばいいんじゃないの？　きっと、さくやちゃんの反応が面白いから、それだけツッコミされるんだよ』
「そうなんでしょうか……ですが、自分で余計な事を言ってしまわないか心配で……」
『まあ、あまり迂闊な事を言うとまずいのは確かだよね』
「はい……」
　さくやのジレンマがそれだ。
　友人に兄を紹介するのも、恋人を紹介するのも構わない。
　だがしかし、この場合それらは同一なのだ。
　世間的に忌避される関係であり、そのために昨年兄との接触を断っていた。
　幾ら、いろはのように変わらず接してくれる友人がいるとしても、全員にそれを求める事は出来ない。
　いろはにしても、以前兄に自分達の関係について否定的に語っていた。
　彼女にしてもそうなのだから、やはり自分と兄の関係は迂闊にもらす事は出来ない。しかし、口下手な自分がどうやって彼女達の好奇心をそらせばいいのだろう……？
　さくやの葛藤が伝わったのか、電話越しにいろはの苦笑が聞こえた。
『ほら、でも昔っから言うじゃない？　案ずるより産むがやすしって。だから、あんまり気にしない方がいいよ』
「そうですね……ありがとうございます。少し考えすぎていたようです」
『それで話を戻すと学園祭は日曜日？』
「あ、はい。そうです。すみませんすっかり横道にそれてしまって」
『いいっていいって。さくやちゃんとおしゃべりするの久しぶりだし、友達の話ってあんまり聞いた事がないしね』
「そう言って頂けると……それで当日の時間なのですが……」
　朝の１０時開始で夕方４時で終わる事。
　その後は来場者は帰宅となり、残った生徒で片付けを行ってキャンプファイヤーで終了となる事などを告げる。
『ふむふむ……っと。おっけー、わかった。もし行けなかったらごめんね。あ、だけど、あたしか朱音さんのどちらかは行くから』
「はい、わかりました。それではまた週末に」
　電話を切り一息つく。
　それから次の番号を呼び出した。
「こんばんは。さくやですが、皐月さん、今だいじょうぶでしょうか？　週末の学園祭の事なんですが……」
　叔母の岩永皐月にも同様の連絡をして、従姉妹の翔子に代わってもらう。
　その後は挨拶と近況報告をして、週末の約束をした。
　就寝の前、さくやは最後の相手にメールを送った。
　書いた文面は僅か数行。
　学園祭の日時の確認と自分の教室の位置。
　それから父によろしくという事務的なもの。
　同時送信した父への文面も似たようなものだが、まだそちらの方が文章が凝っている。
　――何はともあれ、学園祭を乗り切らなくてはならない。
　眠りにつく間際まで、さくやは当日の事をシミュレートしていた。
　友人になんと言って紹介するかという物だったはずのそれが、いつしか兄と共に学園を散策する光景になっていたのは仕方がない事だった。
　借りてきた本のページをめくる時は気をつかう。
　長い年月が経過して、素材が劣化してきた和綴じの本は、乱暴に扱うとすぐに破ける。
　手の油も劣化の原因になるため、うっかり触らないように注意しなくてはいけない。
　ピンセットで摘んでめくり、上から少しずつ読み取っていく。
「え～～っと……」
　墨で書かれた文書は達筆というより、ただの癖字だ。
　もはや解読に近いノリで机に広げたノートに清書していく。
「ったく、自分でやってくれよなぁ……」
　書かれているのは、戦国時代から江戸時代頃の天女についての覚書きだ。
　いわゆる古書だが世に出ているものじゃない。それに中身はかなり強い主観が入っているから、資料としては使われない。当時の創作物の一つとして片付けられてしまうだろう。
　ただ、これが天女に関するどんな一級資料よりも正確な本物である事は知っている。
　なんといっても、これを書いた本人から預かってきたのだから。
「銀子さんもなぁ……」
　御奈神村には一人の女性が住んでいる。
　銀髪赤眼の日本人離れした容姿を持つ彼女は、ごく自然に村に溶け込むように、ひっそりと暮らし続けていた。
　銀子さんというその人は、御奈神村が持つ神秘の一部であり、俺たちの家を遠く遡り続ければ血の繋がりにもいたる人だ。
　夏休みに遭遇した事件の後、御奈神村の天女について調べていた事を銀子さんに話した時に持ってきてくれたのがこの本だった。
『多分これが一番昔だと思うんだけど、なーんかぼろっちくなっちゃって……えへへ。ついでに清書しといてくれると嬉しいな』とは本人の弁だが、なんでも大昔にこっちの世界について、自分の世界と比較しながら書いたものらしい。
　興味があったので借りてきたが、所々に不便さを訴える愚痴みたいなものが書かれているのが、本人を知ってるだけに生々しかった。
「ん……？」
　不意にベッドの方から音が聞こえた。
　投げっぱなしにしていた携帯が振動し、メールの着信を伝える。
　俺こと皆神孝介にメールを送る人間は、実はあまり多くない。
　そもそも、俺自身が無精者なのだからメールのやり取りが弾まない。
　その中でも数少ない例外と言っていいのが、今メールを送ってきた我が妹だった。
「なんだこりゃ？」
　開いていた本を閉じ、代わりに携帯を開く。
　学園祭の案内のメールに混じって、妙な文面が混じっていた。
	　『件名　学園祭の件
	　日曜日の朝１０時から夕方５時まで。
	　私の教室は校舎の３階です』
　ここまではただの事務連絡だ。
　しかし問題はその先。えらく改行した後に意味深な文章があった。
	　『クラスメートの女の子が兄さんに興味深々で』
　更に行が空けられて、文章が続いている。
	　『まだ勘違いされています』
「どういうこっちゃ」
　以前、もう一年以上前だが、さくやは教室で勘違いをされていると言っていた事があった。
　それは俺がさくやの恋人だという物で、今となっては勘違いでも何でもなくなってしまったのだが……。
　いや、それを知ってるのは俺とさくやと、それから身近な人たちだけだ。
　それでもこのようなメールを送ってくるぐらいだ。さくやの方で詮索されるような事態になってるのかもしれない。
「……だとすると……」
　まいった。
　もしかしたら俺とやり取りしてるメールを見られたのだろうか。
「最近はデートがどうなんて話もしてるしなぁ……しっかし、どうする？」
　内容が内容だけに、迂闊に人に話せない。
　親父には……。
「…………」
　ダメだ。絶対にダメだ！
　思わず頬のあたりを指でかく。
　さすがに今は落ち着いているが、俺とさくやの事を話した時に、かなり良いのを貰っていた。
　……親父相手に妹と付き合ってます、なんて話をしたんだから当然かもしれないが。
　ともかく妹の学園は妙にお堅い所のある女子学園だ。
　俺との関係を詮索されるのはとてもまずい。
　さくやは一見して真面目で隙が無いように見えるが、やや天然入ってるので抜けてる所もかなり多い。
　会話の端々やふとした事から疑われる可能性も……。
「……ありそうだ……」
　それはまずい。とにかくまずい。
　とはいえ緊急を要する文面ではなさそうだから、勝負は週末なのだろう。
　疑われているだけなら、俺から変にリアクションをするのは避けたい。
　かといって、妹一人に押し付けるのも可哀想だから……。
「………………」
　さくやにメールを返す。
　いざとなったら少々強引な手でも何とかなるように、味方は多い方がいいだろう。
『学園祭には銀子さんも連れていく』
　あんまり使いたくない手ではあるが、銀子さんは他人の記憶の印象を薄れさせる事が出来る。
　さくやが思い悩むくらいのモノなら、少々強引な手に出るのも考えておこう。
　翌朝、起きた時には既にさくやからの返信メールが入っていた。
『よろしくお願いします』
　即座に銀子さんに電話を入れて日程を伝えた。
　翌日、学園祭の準備のために、さくやは昼前から買い物に出かけていた。
　清宮女子学園の前から出ている通学バスにのり、駅を目指す。
　僅か１０分ほどゆられると駅前に辿りつく。
　大きく開発された駅ビルの周囲にはビルが立ち並び、郊外の森に近い学園とは雰囲気が一変する。
　文化祭準備とはいえ学園行事の一環のため、女生徒達は学園指定のジャージを着ている。
　さくやの班は喫茶店で使うお菓子の用意だった。
　女の子らしい買い物で、飾りつけや内装の重い物を持たなくて良いのはありがたかったが、それだけに重要な仕事だ。
「どこ行くー？　ケーキは明日まで持たないよね？」
「家庭科室を借りる事なっているので、そちらで当日に作る形ですね。今日は日持ちする物で数を揃えられる物を中心に……」
　話している最中に、さくやが勢いよく振り返る。
　駅から出る人々を見渡し、目を凝らして遠くを見つめている。
「どうしたの？」
「あ、いえ。何でもありません。一瞬、見知った人がいたような気がして……」
「え、だれだれ？　やっぱり例のお兄さん」
「……違います。次それを言ったら、薬師さん一人で買い物してきてもらいますからね」
「ごめんってばーっ！」
　勘違いだったという事で話も終わり、駅前の大型スーパーに行く事にした。
　離れる前に、もう一度駅前を振り返る。
　やはりそこには、銀色の髪の女性など居なかった。
「あ、危なかったぁ～」
　狭い路地の中で、隣の銀子さんが胸を押さえる。
「さくやちゃん、あんなに勘よかったっけ？　それともアンテナで孝介くんを受信？」
「俺じゃなく、間違いなく銀子さんが目立つからでしょう」
　銀子さんに話した所、いたく乗り気になってしまい、何故だか特急を使って御奈神村に行く事になった。
　親父は兄馬鹿だと呆れていたが、文句は俺じゃなくて銀子さんに言って欲しい。
「明日には誠二君も来るんだし、そうしたら自由に動けないでしょ？　今日様子見にいかなくちゃダメだよ」
　とは銀子さんの弁だが、どう考えても楽しんでやっている。
　長らく御奈神村にまつわる天女の遺産にその身を縛られていた彼女だが、全てが解決した後は宣言通り『この世の中を楽しむ』つもりらしい。
　……まあ、数百年も生きてきた人に掛かれば、俺なんかていのいい遊び道具だ。
「来る途中も何度もいいましたけど、こんな所まで妹の様子を見に来る方がアレな人じゃないですか……？」
「大丈夫大丈夫、御奈神村は近いからこんな所じゃ無いよ。ちょっと買い物に来ましたら偶然ばったりで通るから」
「そうかなぁ」
「いいからいいから。――あ、ほら、移動するみたいだよ」
　銀子さんがノリノリで出て行こうとする。
　腕を掴んで慌てて止めた。
「ちょっとストップ！」
「――きゃ！　……もう強引なんだから。もうちょっと一緒がいいの？」
「……いや、マジ笑えないんでそういうのやめてください」
　そもそも銀子さんは根本的な所をわかっていないらしい。
「そうじゃなくて、銀子さんめちゃくちゃ目立つんですよ。さくやくらい知ってる人なら、数百メートル離れててもひと目でわかります」
「え～。どこが～？」
「……髪と着てる服が」
「ああ、そっか。じゃあどうしようかなぁ……う～～ん」
「ちらっと見た限りですけど、友達と仲良さそうだしヘタに手出ししないほうが――」
「あ、じゃあこうしよう」
「話聞いてねぇ！」
　いつの間にか手に青いプレートを持っている。
　天女の羽衣と言われる異世界の道具だ。
　プレートは細かい粒子のように砕け、風に乗って大気に溶け込む。
　でも、起こった変化はそれだけだった。
「……？」
「ちょっとあの辺りまでいってみて」
　５０メートルほど離れた、遠くの銀行の入り口を指差した。
「いいですけど……」
　小走りでそこまで行く。
　銀子さんの方を振り返ると――僅か２０秒くらいの間に、見事に居なくなっていた。
「……あれ？」
　さっきまで居た所に戻る。
　路地の入り口には誰も居らず、ゴミ箱の上で寝ている猫が見えた。
「こっちこっち」
　横から銀子さんの声が聞こえ、腕が引かれる。
　そこでようやく彼女の姿を確認する事が出来た。
「どう？　見えた？」
「いや全然……ああそっか、光の屈折を変える機能ですか」
「そう。これならいけるでしょ」
「そりゃ光学迷彩なんていうＳＦ機能なら、問題ないでしょうけど……」
「それじゃいってみようかー！」
　すっかり銀子さんの遊びになってるのは、どこでツッコミを入れるか迷う所だった。
　学園祭で出す物は、出来るだけ地元の名産がいい。そちらの方が、ただの喫茶店ではなく地元の特色を出す事が出来て学園祭らしくなる。
　打ち合わせの時にそんな話をしていたからか、さくや達が最初にやったのは、地元ではどのようなお菓子を扱っているかリストアップする事だった。
「ここのクリーム入りの饅頭が美味しくてね～」
　この手の情報に詳しいクラスメートの案内で、一つずつ見て回っていく。
　美味しいと言われたお菓子の試食をしてみたが、確かに外は柔らかく、中のクリームが舌にとろけそうで美味しかった。
「……美味しいですが、どこかで食べた事があるような」
「あっはは、やっぱり？」
「ええと、どこだったかしら……あ、そうです。昔、父が御土産で買って来てくれたような……あれ？　ですが確か東北に行った時だったような？」
「日本全国にパチもんのあるお菓子だからね」
「どっちかっていうと、こっちがそうだけど」
「なるほど」
　そう言う物もあるのかと感心する。今度はコンビニのお菓子ではなくこれを買って食べようと強く思った。
「では、すみません。こちらを２箱いただけますか？」
　店の前で大声でそんな話をしていたからか、レジを打つおばさんは苦笑いをしていた。

　そんな調子であちこちの店を回る。
　さくや自身、甘い物が好きなのだがそれを言う機会がこれまでに無く、積極的に食べて回る姿は普段の教室のさくやしか知らない同級生からは意外に見えたようだ。
「皆神さんって、けっこう明るい人なんだ」
　悪意は無くとも意外そうに言われた言葉に、どう返していいのか詰まる。
「あ、ごめんごめん。悪い意味じゃなくて、なんか面白いな～って」
「アンタ、それ余計ひどい」
「え～、そうかなぁ……うー。ごめんね？」
「いえ、かまいませんよ。兄にもよくそのような事を言われていますから」
「お兄さん？」
「はい。私は普通にしているのに、人の事を天然だとかコメディアン体質だとか、失礼な事ばかり言うんですよ。そんな事を言う兄さんの方が、よほど体を使って笑いをとりに来るんですけどね」
「へ～。どんな風に？」
「……どんなと言われましても」
「いきなり変なことするの？」
「そのような事はありません。行動も真面目だと思います」
「…………それって普通の人じゃない？」
「普通ですよね……？」
　さくやも一緒になって首を傾げる。
　兄のおかしさは間近に見て貰わないと分からないだろう。
　気がついたら会話が脱線している事が多いが、たまにいつ話題がすりかわったのか分からなくなる。
　普通に話しているだけなのに、おかしな会話になっているのだから、知らない人には説明が難しいと痛感する。
「でも兄は普通なのに気がついたらおかしな事になっていて……私もたまに困惑するんですよ」
「…………」
　黙って聞いていた女子が、ぽつりと言った。
「それ、皆神さんが天然だからなんじゃ」
「――ぷっ、くく、…………っっ！！」
　的確な一言に思わず噴出しそうになり、必死に太ももを常って笑いを噛み殺した。
　さくや自身が説明しようとすればするほど、さくや自身のズレを周囲に証明する結果になっている。
　我が妹ながら、あの天然っぷりはなかなか美味しい。
「～～～～っ」
　銀子さんのいる辺りからも、小さなうめき声が聞こえてくる。
　たまにペチペチと地面から音がするのは、アスファルトを叩いているのだろう。
「ほんと、アイツは……思いっきり自爆してどうする……っ」
「さくやちゃんって、こうちゃんの事になると、いっしょうけんめいだから……笑ったら、かわいそうだよ」
　笑いすぎてるせいか、銀子さんの声にも張りがない。
「最初はどうなるかと思いましたが、これけっこう楽しいですね」
「でしょー？」
　さくや達が次の場所に移動する。
　肩が僅かに落とされているのは、自分の言葉が信じてもらえなくて落ち込んでいるのだろう。
　だが妹よ。
　あの説明じゃ誰がどう聞いても無理がある。
　すっかり天然というレッテルを張られてしまい、さくやは気落ちしていた。
「兄さんのせいだ」
　小さくもらした言葉にツッコミが入る。
「いや、お兄さん関係ないからっ」
「そうでしょうか……兄がもっと、皆さんにわかってもらえるような笑いをしてくれていればと強く思います……」
「お兄さん可哀想に」
「納得がいきません……」
　翳りを落とした目元は悲しみを湛え、真面目な言葉は信頼を得られない悲しみを表現している。
「――ぷっ」
　だというのに、先ほどから口元にお菓子を運ぶ手が止まっていないのだから、悲しみも緊張感も何もない。
　さくやの株価が真面目なクラスメートから面白い天然に急速な勢いで変動している様子を見て、孝介は笑い転げそうになっては、通りすがりの人に不審な眼で見られている。
　それにさくやがまったく気付かないのが尾行している二人にとってはおかしいのだが、さくやは気付く様子もなく、リストアップした店を上から回っていた。
「ねえ、ちょっといい？」
　しかし、更に２件ほど回った所で、先の笑顔とは打って変わった声で、女子の一人がみんなを呼んだ。
「なんだかさっきから、同じ人をよく見るんだけど」
「え、どんな人？」
「なんか男の人でお店の離れた所にいたり、ジュース買ってる所みたり……」
「……単に勘違いでは？」
「でも、お昼食べた時も同じお店に居たよ。それでついさっきも見かけたんだけど、偶然っていうのも……」
「どんな方でしょう？」
「背は少し高くて、太ってなくて、髪は黒くてちょっと癖があって……」
「この近くって観光地なんかあったじゃない？　カメラや荷物なんか持ってない？」
「ううん。何にもなし」
「そんな人、どこにでもいそうだけどなぁ」
「でも何度も見かけてるんだよ。変な人だったら嫌じゃない？」
「顔は？」
「見てないよ。離れてるもん」
「………………」
　今あげられた特徴に思い当る人物が居たが、先の事があったために、さくやは黙っていた。
　そして、先ほど見た駅の銀髪を思い出す。
「少々失礼します」
　携帯メールを打って送信。
　手が空いていればすぐ返って来るはずの返事が、今日は時間が掛かっている。
「……………………」
　今度は一度だけ電話を掛けて、ワンコールで切った。
　かすかに、聞きなれた着信音が流れたように思えたのは、さくやの勘違いではないだろう。
「いきましょうか」
「え、でもそんな人がほんとに居たらどうするの？」
「その時は……」
　見た人間が兄かどうか分からないが、予想通りの人物が近くにいるとしたら、何があっても危険とは無縁になるだろう。
「私が話をつけますよ」
　きっぱりと力強く宣言するさくやに、少女達は感嘆の声をあげた。
「バレた」
　携帯の着信はワンコールで途切れたが、間違いなくさくやに聞こえている。
　それだけなら気付いてないと取れなくも無いが、メールの文面が『どこに居ますか？』は明らかな誘い出しだ。
「けっこう楽しかったね」
　迷彩を解いた銀子さんが気楽な調子で言っている。
「それで、さくやちゃんどうだった？　安心した？」
「……安心って言われても、単にさくや尾行してただけじゃないですか」
「楽しそうではあったよね」
「それはまあ」
「こうちゃんと一緒の時のさくやちゃんって、すごく自然なんだけど、逆に言うとそれ以外の時ってあんまり想像できないんだ」
「そういうものですか……？」
「私から見てだけどね。でも、他にもそんな風に思ってる人もいるんじゃないかな」
「…………」
　どうだろうか。
　いろはも以前に似たような事を言っていたかもしれない。
　俺とさくやの事について、いろはに忠告じみた事を言われて諭された時。それから、俺たちについて困惑を示しながらも変わらず友達で居てくれると言っていた時。
　俺とさくやについて、そんな事を言ってくれた。
　しかし、俺と銀子さんが見た先にいるのは、友人たちと居る姿だ。
　俺からすると楽しそうに見えたが、今のさくやは銀子さんからすると自然ではないという事なんだろうか？
　銀子さんに言ってみると、少し困ったように笑った。
「そうでもないんだけれど……う～ん。こればかりは難しいかな。でも、私から見た今のさくやちゃんも楽しそうだったよ」
「いまいちよく分からないですけど」
「ま、いいからいいから。さて、それじゃちょっと行ってくるから、こうちゃんは駅前のあたりで待っててね。先に帰っちゃ嫌だよ」
「え、行くってどこに……」
　俺の質問には答えず、小走りでさくや達が歩いていった方向に行ってしまった。
「まさか」
　今さら追いかけるわけにもいかない。
　明日また会うのに、兄まで出ていくとややこしい事になる。
「……仕方ない。待つか」
　少し取り残された気分で駅に向かった。
　初めての街を一人で歩くのは、大学のサークルの関係もあって珍しい事じゃない。
　他所の地方に行く時に、教授のスケジュールと会わなくてずれて現地入りする時がある。
　そんな場合も知らない所を一人で歩く事になる。
　今回もそれと同じ。
　後から銀子さんと合流して御奈神村まで帰る。
　けど……。
「……はぁ」
　日が傾きつつある。
　駅前のベンチに座り、買ってきたアイスを食っても気が晴れない。
　やっぱり置いていかれたような感じがして、時間が進むのが遅かった。
「何をしてるんですか？」
　聞きなれた涼しげな声は、少し呆れた色を帯びていた。
「恋人を待ちぼうける孤独な男ごっこをしてるんだ」
「じゃあ、それも終わりですね」
　ベンチの隣にふわりと腰を下ろす。
　鼻先を掠める長い髪から、いい匂いがした。
「で、なんで兄さん達がこんな所に？」
「……行ったろ？　銀子さん連れて行くって」
「…………それは、明日の事では？」
「俺もそのつもりだったんだけどなぁ。こんなメール送られてきたから心配だったんだよ」
　さくやからきた文面を開いてみせる。
「…………あ」
「な？」
「なんというか……すみません。書き直した時の消し忘れです」
　分かってみると単純は話。
　ただ、兄の話題になると友人達の食いつきが良くなるのも本当の事らしい。
「という事は、明日行ったら……」
「……写真くらいは撮られるんじゃないでしょうか？」
「完全に珍獣扱いだな」
「きっと、同級生の兄妹ってそういうものですよ」
「否定はしない」
　中学の頃に、俺の妹が入学してくるって事でさくやの事を見に行ったヤツがいた。
　見た目だけは良いから、家に遊びに来るのにかこつけてさくやを見に来たヤツまでいる。
　それと似たような物なのだろう。
　そして、これと同じ話は当時のさくやの側でもあったはずだ。
「ですが……」
「うん？」
「兄さんが不愉快に思うなら、明日来なくても大丈夫です」
「…………おい」
「わっ」
　頭に手を置いた。
　そのままぐしゃぐしゃにかき回す。
「ちょ、ちょっと。いきなり何をするんですかっ」
　慌てて手櫛で髪を戻すが、一度解れた髪は引っ掛かって一部変に跳ねてしまっている。
「妹がそんなこと気にするんじゃない。俺からさくやと遊ぶ楽しみを奪うつもりか？」
「そんな事は……」
「案内してくれるんだろ？」
「それはしますが、ですが皆さんや父さんもですよ」
「そりゃそうだろ」
「二人きりになれないかもしれませんよ」
「そういうもんだろ。学園祭って」
「……そういうものですか」
「いいんだよ。こっちは妹が普段どんな所で暮らしてるか見られるなら、それで満足なんだ。催し物だってしょせんは学生の展示物だぞ？　最初からそれだけが目当てなら、街中にある普通の店に行った方がいい。けれど、それでもやっぱり俺たちも、他の生徒の家族も学園祭に行くんだよ。自分達の家族が、どんな場所で過ごしているのか知りたいからな。……大体、お前だって大学見学する時にデート気分じゃないだろ」
「それは……まあ」
「だから、いいんだ」
「……はい。兄さん」
　さくやが俺の肩に軽く頭を乗せる。
　ひと目があるので、触れ合ったのはそれだけ。
「これからまた家に帰るんですか？」
「いや、ここまで来ちまったからな。皐月さんの所にでも泊めてもらうよ」
「…………」
　俺の手にさくやの手が重ねられる。
　細い指が手の甲の上を動き、次の瞬間、小さくつねられていた。
「いてっ。何すんだよっ」
「……今度は冬休みにみんなで行こうと約束してたのに」
「仕方ないだろ、こんな所まで来ちまったんだから」
「夏休み終わって帰る時なんて、あんなに見送ってもらったのに。すぐに行ったら笑われますよ」
「いろはは笑うかもしれないけど、翔子ちゃんは歓迎してくれるから大丈夫」
「…………兄さんって本当に天然ですね」
「お前にだけは言われたくない！」
「まあ、いいです」
　座った時と同じく軽い動きで立ち上がって、微笑んだ。
「それじゃ帰ります。また明日、待ってますね」
「ああ。楽しみにしてる」
「楽しみに……ですか。わかりました」
　駅前のターミナルにバスが入ってくる。
　それに乗り込むと、一番後ろの窓際に座って小さく手を振った。
　さくやが見えなくなるまで、そこで見送っていた。
　バスが通りを抜け走り去る。
　入れ違いのように、銀子さんがやってきた。
「それじゃ帰ろうか」
「……ちなみに銀子さんはどこに行ってたんですか？」
「ん？　もちろんさくやちゃんの所。こうちゃんがいるよって教えてきた」
「……なるほど、さくやも大変だ」
「え、なんで？」
「銀子さんはほら超美人ですから。帰ったらモデルや芸能人と知り合いなのかと、さくやは問い詰められると思いますよ」
「え～。そうかなぁ。やっぱり？」
「嘘です」
「ええっ！」
「半分だけですけどね。……とりあえず帰りますか」
　急行に乗って御奈神村に。
　そしてまた明日やってくる。
　それが楽しみだった。
　翌日、さくやは一つ決心を固めていた。
「今日の衣装の事なんですけど……」
　言いながら顔が熱くなるのを感じる。
　自分からそんな事を言い出すにしても、恥ずかしくて仕方ない。
「私は……ええと……」
「さくっち真っ赤でかわいーっ」
「や、薬師さん、やめてください」
　一度深呼吸して言い直した。
「あの服、着てみようと思います」
「まったく、孝介はな……さくやの事になると後先考えないな」
　御奈神村の駅で合流した親父の呆れ声に、返す言葉がなかった。
「まあまあ誠二くん。いきなりそんな事言ったら可哀想だよ」
「……はぁ」
　銀子さん曰く、結婚前に何度か会った事があるらしいが、親父はやはり困惑している。
　昔会った事があろうとも、いきなり目の前の自分より年下の女性に馴れ馴れしくされてはびっくりする。
　俺もやられたから良くわかる。
「おにいちゃんは、さくやちゃんの学校って行った事あるの？」
「んー。昔一度だけ。その時も学園祭だったけど、結局さくやと会えなかったんだよな」
「ふ～ん」
「翔子ちゃんも学園祭やる時は呼んでくれよな」
「うんっ」
　皆で電車に乗って清宮女子学園を目指す。
　校門でパンフレットを受け取り、学園の敷地の中に。
　グラウンドには屋台が並び、中庭には大きな立て板が置かれ、学園全体の見取り図になっている。
　あたりにはコスプレをした生徒が自分達の教室の案内を書いたチラシを配っていた。
　来場者は思ったよりも多く、中には関係者ではなく学園祭に立ち寄ったらしき客の姿も多く見られた。
「すごいね～」
「そうだな……」
　当然の事ながら学園の関係者は全てが女生徒で、それが華やかさに一層の拍車をかけている。
　遠くに居るメイドっぽい服の子は、何人かの人に写真撮影をお願いされているようだった。
　そういった光景も華やかさを増す要因になっている。
「さくやの教室は……っと……」
　パンフレットを見ながら案内図を確かめていく。
　ひとまずそちらに顔を出して、後は自由行動。
　大人数でうろついても、落ち着くところがなくて困ってしまうだろうから、各自でバラバラにしようと決めていた。
「えっ」
「あれ？」
　いろはと翔子ちゃんが、何かに驚いている。
「すみません」
　横から、メイド服の女の子に声を掛けられた。
　手元にチラシが差し出される。
　近くに居たメイドさんなら、先ほど注目を浴びていた子だろう。
「もしかして……」
「さくやちゃんっ？」
　完全に思考が停止していた。
　驚きに固まっていた俺よりはやく、いろはが歓声をあげる。
「うわ～～。すごいねー。あんまり似合いすぎてて一瞬わかんなかったよ～～」
「そ、そう……でしょうか……。ちょっと恥ずかしくて……消えてしまいそうです」
「すっごくかわいいよ」
「あ、ありがとう。ございます。翔子ちゃんもとても可愛いです……」
　赤くなったさくやは両手にチラシを抱きしめて、もじもじと身を捻る。
　その姿がますます無駄な色気を振りまいているのだが、本人は当然のように気付いていない。
「ほら、孝介」
　親父に背中を押された。
「あー……その、さくや」
「は、はい……なんでしょう」
「親父が写真撮るってさ」
　頭を小突かれる。
「いてっ」
「……何を馬鹿な照れ隠しなんてしてるんだ」
「そうは言ってもなぁ。どうせ撮るんだろ」
「もちろん。そして母さんの墓前に供えておく」
「い、いやです！　やめてください」
「あら……だけど、姉さんなら喜びそうね」
「さやちゃんなら絶対に、ね」
「いろんな意味でやめてくださいっ」
「それはともかくとして、だ」
　改めてさくやに向き直った。
「良かったら学園を案内してくれますか？　メイドさん」
　言われたさくやはしばしきょとんとして、深々と頭を下げて、丁寧な挨拶を返した。
「かしこまりました」
　やがて恥ずかしさに赤くそまった顔をあげ、悪戯っぽく微笑む。
「こういうのも少し面白いですね。母さんが人を笑顔にさせていた気持ちが、少し分かった気がします」
　１０月の空は、高く澄んだ秋晴れが広がっている。
　遠くからさくやと同じ格好をした女の子がやってくる。
　交代の時間らしい。
　俺たちに小さく会釈をして、さくやに何か耳打ちをしていた。
「え、ええ……そうです。私の……大事な家族です」
　友人に言うさくやの笑顔は、やはり恥ずかしそうで。
　しかし、どこか誇らしげに感じられた。
　　エピローグ
　日が傾き、いつしか夕暮れが訪れていた。
　グラウンドの中央に設置されたのは、木材で組まれた櫓だ。
　その中には今日一日使われた学園祭の飾りが入れられている。
　やがて放送と共に、小さな火がつけられた。
　小さなマッチから教師が手にした捻った紙に。それから櫓の中に入れられた飾りに。更には教室で使われたベニヤ板へ移り、火はどんどん大きくなる。
　元通りになった教室の中、さくやは一人グラウンドの炎を見下ろしていた。
　たった一日。
　だけど、とても長い一日だった。
　家族と共に学園を見て回り、案内をした。
　それぞれの教室で行われていた催し物をやって、翔子と金魚掬いで勝負した。
　……一匹も取れずに負けてしまって兄には笑われたが、それはとても楽しい時間だった。
　女子しかいないこの学園では、最後の炎はあくまで見送るためのもの。
　共学だと男女混合でダンスをやったりするらしいが、そのような風習が無くてよかったと思った。
「飲む？」
「ありがとうございます」
　どこから調達してきたのだろう。
　フルーツ牛乳のパックを清香から受け取る。
　ストローを挿して、中のドリンクを吸い上げると口の中に甘みが広がった。
　喉を滑り落ち、胃の中に広がる甘さに知らずに入っていた肩の力が抜け落ちる。
「美味しい」
「でしょ」
　口数少なく、二人で炎を見送っていた。
「この３年、色んな事があったよね」
「そうですか？」
「わたしにとってはね。さくやにとってはそうでもなかったのかな？」
「……どうなんでしょう。実は少々実感がなくて……」
　色々な事――と言われて、さくやが真っ先に思い出すのは御奈神村で起こった出来事だ。
　そこで生まれ、母を亡くし、死を求めた所を兄たちに救われた。
　昨年は山童という動物に追われて命の危機を感じ、兄と恋人になった。
　そして今年、日本中でニュースになった大事件を経て今こうしてここにいる。
　とても一般的な学生の経験とは言えない。
　学園で起こる出来事は、どれもそれなりに日常に食い込んでいて大事ではあったが、困難と思える物があっても、内心で先に思い出すのは暗闇の森の中で感じた恐怖であったり、手を引っ張ってくれた力強さだった。
「それでも、楽しかったと思ってます。最初は気まぐれだったんですが、ここに来て良かった」
「そっかぁ。それはよかった」
「……？　どうしてです？」
「最初に話した時の事、覚えてる？」
「ええと……」
　昔の事を思い出す。
　たかだか２年と半分でしかないのに、それはずいぶん遠く感じられた。
「確か私がこの辺りに座っていて、斜めに薬師さんがいて……」
「そうそう。それで初日に声をかけた」
「なんて言われたんでしたっけ？」
「なんだ～。覚えてないの？」
「申し訳ありません……」
　あの時は……自宅から遠く離れた所に入学し、寮生になって見知らぬ人と共同生活をする事になった不安。
　それから今まで自分が知らなかった新しい世界への期待。
　そして、軽い後悔と喪失感があった。
「卒業式」
「……え？」
「入学式が終わった後に、こういったの。卒業式終わったみたいな顔してるよって」
「…………」
　そうだっただろうか？　さくやは自問する。
　自分の事に手一杯で、細かいことは思い出せない。
　それでも初日に悪い印象が無かったのだから、その言葉は自分にとって嫌なものではなかったのだろう。
「卒業式……」
　そう、あれはさくやにとって、確かに卒業式だった。
　幼い頃に母を亡くし、自分は守ってくれる兄という存在に依存をしかけていた。
　これではダメだと思い遠く離れた学園を選び来てみたものの、喪失感は拭いされなかった。
『なんか卒業式が終わったって顔してるね』
　ふと、耳に声がよみがえる。
　――そう、あの時確かにそういわれた。
『すっきりした顔っていうか、ちょっとホッとした顔みたいな。普通逆なのにね』
「……ああ、確かに。思い出しました」
「いやー。帰ってから変なこと言ったかなぁって自分でも後悔してたんだけどね。でも、みんな入学式終わって、知らない人の中で不安そうな顔してるか、知ってる人だけで固まってるのに、さくやだけだよ。安心したように澄ましてたの」
「別に澄ましていた訳ではないのですが」
「わたしにはそう見えたの！」
「……まあ、不本意ながら、たまにそのような事は言われますけど」
「最初は付き合い辛い人なのかなって思ってたんだよ。言葉もそっけなかったし」
「……これが普通なのですが……」
「今はもう分かってるって。でも入学式の後はちょっと面白い人なのかなって思った。さくや、今の卒業式発言になんて返事したか覚えてる？」
「申し訳ありません。さっぱり」
「だと思った」
「…………むむ」
　自分はなんと応えただろうか。
　ここまで言われるくらいだから、きっと変な回答をしたのだろう。
　さくや本人としては、出来れば一言で切り返せるような上手い事を言ったはずなのだが、他人と自分の認識はずいぶん違うらしい。
「すみません。思い出せません」
「しょーがないなー。じゃあヒント、卒業式についてくるもの」
「………………ええと……」
　頑張って記憶を掘り起こしてみる。
　すぐに思い出せないという事は、他人がみるよりもずいぶん緊張していたのだろう。
　でもそれは当然だ。
　今までずっと共にあった、半身の居ない世界に来たのだから。
　卒業というのは言いえて妙だ。
　さくやにとって、家を離れてひとり立ちした学園への入学式は、まさしく卒業式に相応しい。
　今こうして改めて自らに向き合うのに必要な、大切な時間だった。
「卒業式証書……？」
「正解」
　卒業式に必要な物という事で連想したのだが、どうやら間違っていなかったらしい。
「卒業式が終わったみたいっていったら、自分の鞄をあけて、中をみて『卒業証書がありませんよ』って言ったの」
「……いえ、だって無いじゃないですか。入学式なんですから」
「だから、無いのにやったのが面白かったんだって」
「聞きながら、それはとても上手い切り替えしだと感心してたんですが……」
「違うから！　ずれてるからっ」
　だが、得られる物なら欲しかっただろうと思う。
　兄を意識したのはずいぶん昔だが、対等になろうと思えるようになったのが学園生活のおかげだ。
　きっと、離れた経験がなければ、今も自分はただの『妹』のままだっただろう。
「とまあ、そんなこんなで、わたしはさくやのおかげで楽しかったな～。皆神大明神様のご威光には何度も救われました」
「……受験には威光が届きませんから、自分で頑張らないとダメですよ」
「ははーっ！」
　大仰に頭を下げる。
「それじゃ、そろそろ帰るね。さくやはどうする？」
「私は……もう少し見て行こうと思います」
「そっか。それじゃね」
　教室を出て行く清香を見送って、携帯を開いた。
　少し小さくなった炎を写し、兄に転送した。
　ややあってメールが返って来る。
　それには一枚の写真が添付されていた。
『学園祭で出会った美少女メイドだ。羨ましいだろう』
　そこにはコスプレをした自分と兄が並んでいた。
　見る影もなく赤く染まり、手にしたチラシで顔の半分を隠している。カメラから逃れようとして、視線が定まっていない。今にも湯気を出して倒れそうだった。
　こんな顔をしていたのかと苦笑しながら、返事を書いた。
『このような美人を捕まえるなんて、兄さんはとんだ女たらしですね。浮気は許しませんよ』
　返信は速かった。
『メアドも聞き出せなかったんだ。許してくれ』
「まったくもう……」
　まあ、気が向いたらもう一度くらいは見せてあげても良いかもしれない。
　清宮女子学園の祭りは今回が最後だが、春の受験が終わればまた新しい生活が幕をあげる。
　そこは兄が通っている大学。
　今度は二人で肩を並べて共に通う。
　その時にも、きっとまた祭りはあるだろう。
　いつか訪れるその時を待ちながら、さくやはもう一度メールを送った。
『きっとまた会えますよ』
　返事は速く、そして予想通りだった。
『楽しみにしている』
　さて、これをネタにえっちな事を要求されないといいけれど……。
　その時はなんと言ってからかってあげよう？
　向こうも予想しているだろうから、きっと忘れた頃に言い出すに違いない。
　近い未来に訪れるであろう、小さなやり取りが楽しみだった。